2024 ⁄ 05 ⁄ 21
-青木農園の歴史について-
柑橘、筍が終わり、青木農園はふきの季節になってきました。
今回は青木農園の歴史をご紹介したいと思います!
恐らく青木農園だけではなく、清水のみかん産業の歴史ともリンクしてくるのではないかと思いますので興味のある方は読んでみてください!
長文になりますが、ご容赦くださいませ…
柑橘の栽培を始めて約150年になりますが、青木家が清水の杉山という地域に住み始めてからは記録がある限りで450年が経ちます。
大昔は何をしていたかは分かりませんが、柑橘を栽培する明治以前はドクエ(ランプ油の原料)の栽培と、養蚕を行っていたそうです。
なぜ柑橘の栽培を始めたかといいますと、明治に入り化石燃料が日本にも入ってきて、ドクエの油の需要がなくなったのが大きな要因でした。
ドクエの栽培は杉山地域全体で行っていましたが、価格が急落し、地域全体が非常に困窮したと言います。
このままではいけないと、次の産業として目を付けたのが、その当時和歌山で『オレンジ色のダイヤ』と言われていたみかんです。
その当時はまだ生産量が多くなく、作れば売れるという時代だったのでしょう。
私たちの先祖はリヤカーを引き、静岡から和歌山まで苗木を取りに行き、それを植えたのが柑橘栽培の始まりです。
柑橘は平地よりも傾斜がある方が良いものが育つということで、手つかずの山を切り開き、畑を作っていきました。その当時は重機もないので全て手作業です。
樹を切り、土を耕し、出てきた石を積んで段々を作ります。人力だけで1日どれくらいの面積を畑にできたのか。気が遠くなる作業だったと思います。
切り開いた山の畑に苗木を植えていきますが、みかんが産業としてお金になったのは恐らく、山を開拓した次の代の人たちからだったと思います。
初代の人たちがどれほど苦労したか。困窮を抜けだしたい、自分達が生きていくための産業を生み出したい。恐らくそんな思いだったのではないかと思いますが、そのエネルギーはとてつもないものだったでしょう。
みかんが取れ出し、しばらくは良い時代が続きました。今建っている母屋もみかん栽培初代の先祖が建てた家で、築100年程になります。
みかんは儲かるからと、今では考えられませんが、平らな土地を売って山の畑を買ったそうです。
みかんを植えた初代、2代目くらいまでは自分たちが開墾して作った畑なので、地に足が付いた経営をしていました。その後からは植えられたみかんがどんどん実を生らせ、ジャンジャンお金が入ってきます。これがみかんバブルです。(勝手に名付けていますが(笑))
不必要なもの、贅沢品にお金を使いました。しかしそんな時代は長くは続きません。
昭和47年にみかんの価格は大暴落します。その原因は全国的にみかんを作り過ぎた供給過多でした。車が普及し、農道ができ、それまでと比べものにならないくらい容易にみかんを作ることが可能になったのです。
それまで『オレンジ色のダイヤ』と呼ばれ、みかんの価格は1,000円/kgで取引されていたものが60円/kg程まで下がってしまいました。みかんの価値は1/10以下で、生活が成り立ちませんでした。みかんバブルの時にお金を貯めて、他の産業にも目を向けていればよかったのでしょうけれど、みかんの栄光は永遠に続くと思っていました。良い時は誰もがそう思うのかもしれません。
みかん農家を辞める人が続出します。青木農園は赤字を垂れ流しながらもなんとか続けていましたが、そこで新たなる産業として生活の助けになったのが『お茶』です。
みかんが悪い時期、お茶の価格は良かったのです。もちろん赤字のみかんを辞めてお茶に変える農家もたくさんいましたが、青木農園はみかんとお茶の2つを軸に経営していきました。
もう一つこの時代に青木農園独自に行っていたことがあります。今では6次産業化と呼ばれる加工品の製造販売です。この時に『夏みかんマーマレード』と『きゃらぶき』の2枚看板が誕生しました。みかんやお茶は市場の価格に左右されますが、加工品は自分達で値段を付けて販売できるので、この加工品が経営を支えていました。
そこから長くみかんの安い時代が続きましたが、近年では少しづつ状況も良くなってきており、現在はお茶はやめ、柑橘、筍、加工品の3つで経営を行っています。
150年続けてきたことにも価値はあると思いますが、私達が大切にしているのは、150年の歴史を知っていることです。苦労して山を切り開いた祖先がいることを知っていれば、自分達よがりな経営はできません。時代に合わせて、栽培するものを変えたり、新しいことにチャレンジしていくことも大切ですが、経営の根底には先祖から受け継いできたものがあります。
変えるべきこと、変えないで守っていくべきことをよく考えて、自分たちの農業をしていきたいと思います!
今回は青木農園の歴史をご紹介したいと思います!
恐らく青木農園だけではなく、清水のみかん産業の歴史ともリンクしてくるのではないかと思いますので興味のある方は読んでみてください!
長文になりますが、ご容赦くださいませ…
柑橘の栽培を始めて約150年になりますが、青木家が清水の杉山という地域に住み始めてからは記録がある限りで450年が経ちます。
大昔は何をしていたかは分かりませんが、柑橘を栽培する明治以前はドクエ(ランプ油の原料)の栽培と、養蚕を行っていたそうです。
なぜ柑橘の栽培を始めたかといいますと、明治に入り化石燃料が日本にも入ってきて、ドクエの油の需要がなくなったのが大きな要因でした。
ドクエの栽培は杉山地域全体で行っていましたが、価格が急落し、地域全体が非常に困窮したと言います。
このままではいけないと、次の産業として目を付けたのが、その当時和歌山で『オレンジ色のダイヤ』と言われていたみかんです。
その当時はまだ生産量が多くなく、作れば売れるという時代だったのでしょう。
私たちの先祖はリヤカーを引き、静岡から和歌山まで苗木を取りに行き、それを植えたのが柑橘栽培の始まりです。
柑橘は平地よりも傾斜がある方が良いものが育つということで、手つかずの山を切り開き、畑を作っていきました。その当時は重機もないので全て手作業です。
樹を切り、土を耕し、出てきた石を積んで段々を作ります。人力だけで1日どれくらいの面積を畑にできたのか。気が遠くなる作業だったと思います。
切り開いた山の畑に苗木を植えていきますが、みかんが産業としてお金になったのは恐らく、山を開拓した次の代の人たちからだったと思います。
初代の人たちがどれほど苦労したか。困窮を抜けだしたい、自分達が生きていくための産業を生み出したい。恐らくそんな思いだったのではないかと思いますが、そのエネルギーはとてつもないものだったでしょう。
みかんが取れ出し、しばらくは良い時代が続きました。今建っている母屋もみかん栽培初代の先祖が建てた家で、築100年程になります。
みかんは儲かるからと、今では考えられませんが、平らな土地を売って山の畑を買ったそうです。
みかんを植えた初代、2代目くらいまでは自分たちが開墾して作った畑なので、地に足が付いた経営をしていました。その後からは植えられたみかんがどんどん実を生らせ、ジャンジャンお金が入ってきます。これがみかんバブルです。(勝手に名付けていますが(笑))
不必要なもの、贅沢品にお金を使いました。しかしそんな時代は長くは続きません。
昭和47年にみかんの価格は大暴落します。その原因は全国的にみかんを作り過ぎた供給過多でした。車が普及し、農道ができ、それまでと比べものにならないくらい容易にみかんを作ることが可能になったのです。
それまで『オレンジ色のダイヤ』と呼ばれ、みかんの価格は1,000円/kgで取引されていたものが60円/kg程まで下がってしまいました。みかんの価値は1/10以下で、生活が成り立ちませんでした。みかんバブルの時にお金を貯めて、他の産業にも目を向けていればよかったのでしょうけれど、みかんの栄光は永遠に続くと思っていました。良い時は誰もがそう思うのかもしれません。
みかん農家を辞める人が続出します。青木農園は赤字を垂れ流しながらもなんとか続けていましたが、そこで新たなる産業として生活の助けになったのが『お茶』です。
みかんが悪い時期、お茶の価格は良かったのです。もちろん赤字のみかんを辞めてお茶に変える農家もたくさんいましたが、青木農園はみかんとお茶の2つを軸に経営していきました。
もう一つこの時代に青木農園独自に行っていたことがあります。今では6次産業化と呼ばれる加工品の製造販売です。この時に『夏みかんマーマレード』と『きゃらぶき』の2枚看板が誕生しました。みかんやお茶は市場の価格に左右されますが、加工品は自分達で値段を付けて販売できるので、この加工品が経営を支えていました。
そこから長くみかんの安い時代が続きましたが、近年では少しづつ状況も良くなってきており、現在はお茶はやめ、柑橘、筍、加工品の3つで経営を行っています。
150年続けてきたことにも価値はあると思いますが、私達が大切にしているのは、150年の歴史を知っていることです。苦労して山を切り開いた祖先がいることを知っていれば、自分達よがりな経営はできません。時代に合わせて、栽培するものを変えたり、新しいことにチャレンジしていくことも大切ですが、経営の根底には先祖から受け継いできたものがあります。
変えるべきこと、変えないで守っていくべきことをよく考えて、自分たちの農業をしていきたいと思います!